クボタのエンジン事業のきっかけとなった杉山商店とは?

1922年(大正11年)に農工用石油発動機の製造を開始したクボタは、創業以来から取り組んできた鋳造技術と、自動車製造技術での経験や、機械加工の生産技術を活かし、非常に高い評価を受け、事業としても大きな成功を収めることができました。

その成功の影には、杉山商店という存在がありました。

そもそもクボタがエンジンを製造することになったのは、杉山商店に要請されたから、といわれています。

そして、クボタの発動機を販売し、日本の農家にクボタブランドを広めたのも、杉山商店。

果たして、この杉山商店というのはどういう商店だったのでしょうか。さまざまな文献からその謎について調べてみましょう。

杉山商店との出会い

1910年代、久保田鐵工所(当時)は鋳鉄管製造によって大きな発展を遂げ、第一次世界大戦期の好景気に乗じて機械部門への多角化を行いました。しかし、第一次世界大戦後の不況によって久保田鐵工所の機械部門は壊滅的な打撃を受けました。

1921年(大正10年)、創業者久保田権四郎の長女シツエの婿養子である久保田篤次郎は、この機械部門の立て直しについて「親父」である権四郎にある提案をしました。

「親父は、では何を作るかといいますから、農業用発動機がよいと答えました。ところが親父は言下に、百姓がそんな機械を使うものか、といって私はえらく叱られました」という。
「日本の企業家4 久保田権四郎」沢井実(PHP研究所)

当時、日本でも灌漑ポンプ用などの農業用発動機の需要は高まりつつあり、アメリカなどの海外製の発動機が多く輸入されていました。

また、岡山県を中心に小規模の工場で、国産発動機の製造が盛んに行われており、すでに国内の農家からの需要が高まっていたと思われます。篤次郎は1919年(大正8年)に設立されたクボタの自動車製造事業である「実用自動車製造株式会社」におけるキーパーソン。この「実用自動車製造株式会社」の社長には権四郎が就任しましたが、おもに、篤次郎の熱意を受けてこの自動車事業に踏み切ったといわれています。

ちなみに、この「実用自動車製造株式会社」の設立日は、なんと篤次郎の誕生日だったとのこと。権四郎が篤次郎を高く評価し、非常に可愛がっていたと想像されるエピソードです。
(なお、後年、権四郎が自動車製造事業から撤退した後、久保田篤次郎は「実用自動車製造株式会社」から「ダット自動車製造」専務を経て「日産自動車製造」の常務に就任しています。日本の自動車産業の礎を担って活躍したそうです。)

しかし、権四郎に可愛がられていた篤次郎が「えらく叱られた」というほど、当初、久保田権四郎は、農業用発動機の需要についての評価は低く、自社での製造においては非常に消極的だったようです。

しかし、この件からまもなく、権四郎は心変わりをします。

そうしたクボタが、農工用石油発動機の生産を開始したのは、酉島製作所のポンプ販売店でゼット発動機の輸入代理店でもあった杉山商店からの打診に対して、大きな打撃を受けた機械部門の立て直しを模索していた権四郎が応じたため
「日本の企業家4 久保田権四郎」沢井実(PHP研究所)

酉島製作所のポンプ販売店で、アメリカ製発動機の輸入代理店でもあった杉山商店店主杉山武夫が、権四郎に国産発動機製造を打診してきた。権四郎は、機械工場の生産設備や製造技術が大いに活用できると判断し、石油発動機の製造に乗り出すこととなった。
「ケースブック日本の企業家活動」 (1999). 日本: 有斐閣.

「杉山商店」という会社の代表者、杉山武夫氏からの提案を受け、権四郎は農業用発動機の製造に取り掛かることになりました。

1922年(大正11年)、クボタは石油発動機の製造を開始。1923年(大正12年)4月から農工用石油発動機A型三馬力が杉山商店を通じて発売されました。

灌漑ポンプ用、籾摺機の動力源としてクボタの石油発動機の売れ行きは好調で、1925年(大正14年)ごろから5馬力、7.5馬力、10馬力と販売機種を増加させることとなりました。

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文献から探る杉山商店

では、権四郎に農業用発動機をつくらせた杉山商店とはどんな会社で、その代表者である杉山武夫氏とはどういう人だったのでしょうか。

インターネットで検索すると、全国に杉山商店という屋号を持つ会社や組織は全国各地にたくさんあります。製造業、食品会社、卸売業、小売店など・・・しかし、当時、クボタに発動機を作らせた杉山商店と思われる会社はなかなか見つかりません。

検索結果を注意深く辿り、検索キーワードを変えるなどあらゆる方法を試してみたところ、いくつかの糸口を発見。まずは「経営史学」第38巻 (経営史学会)に杉山商店とクボタの関係についての記述を見つけました。

一九二一年に農村への急速な発動機の普及に着目した杉山商店 (米国フェアバンクス・モース社ゼット発動機の輸入総代理店)から国産化を勧められた久保田は、大戦後の不況対策の一環として現有の生産設備、技術が転用可能な農業用石油発動機生産に進出する。
「経営史学」第38巻 (経営史学会)

その「経営史学」の出典元から、1926年に発刊された「関西業界人物大観・第一集」を参照すると、杉山商店の代表者の名前やプロフィールなどの情報を得ることができました。

杉山商店社長・杉山武夫は一八九〇年滋賀県に生まれ、神戸高等商業学校卒業後、一九一三年神戸の金物商杉山家の養子となり、 第一次大戦期に鉄材貿易で成功を収めた。一九一六年に合資会社に組織変更した杉山商店は一九一八年に大阪に本拠を移し、久保田鉄工所・藤田鉱業・酉島製作所の総代理店として事業を拡大していった。
(帝国興信所編『関西業界人物大観・第一集』一九二六 年、四六八頁)

と記述されています。社長の名前は杉山武夫氏。1890年(明治23年)生まれですから、1870年(明治3年)生まれの久保田権四郎とは20歳差。権四郎と杉山武夫氏との邂逅があったとされる1921年(大正10年)の時点で、権四郎は51歳、杉山氏は31歳です。

なお、最初に農業用発動機を提案し、「えらく叱られた」久保田篤次郎は1891年(明治24年)生まれなので、杉山氏とほぼ同年齢です。

さらに、大正から昭和初期にかけて出版された書籍の検索を進めます。

「水道管製造の覇者」と「農村機械化の先駆者」

「日本都市大観(附:満洲国都市大観. 昭和11年版)」(大阪毎日新聞社 編)という書籍があります。当時の日本の産業や都市、企業についての情報が満載の大百科事典のような書籍です。この書籍の「大阪府」の「農具」の項に、杉山商店の紹介を発見しました。

この書籍が発行されたのは1936年(昭和11年)、杉山武夫氏は46歳。本書では彼のことを「農村機械化の先駆者」と絶賛していました。

「合名会社杉山商店は明治15年の創業にかかり、わが国の農業界が欧米先進国の機械農業法に遅れて労働農業に甘んじていたころ率先して「手から機械へ」をモットーとしてこれが機械化に乗り出したのであって、以来50余年間専らこれへ注力し本邦農業界の躍進に多大な貢献をなしたことは実に大いなる功績として評されている。」
「日本都市大観(附:満洲国都市大観. 昭和11年版)」(大阪毎日新聞社 編)

前述の資料とかけあわせると、杉山商店の年表は以下のようになります。

1882年(明治15年)杉山商店、神戸で創業
1890年(明治23年)武夫、滋賀県に生まれる
1913年(大正2年)武夫23歳。神戸の金物商杉山家の養子となる。その後、第一次大戦期に鉄材貿易で成功を収める。
1916年(大正5年)武夫26歳。合資会社に組織変更。
1918年(大正7年)武夫28歳。本社を神戸から大阪に移す。
1921年(大正10年)武夫31歳。久保田権四郎に農業用発動機製造を打診する。
1922年(大正11年)武夫32歳。久保田鐵工所船出町工場で農工用石油発動機A型三馬力の製造を開始。
1923年(大正12年)武夫33歳。杉山商店より農工用石油発動機A型三馬力の販売を開始。

殊に小型ディーゼル界の覇王として輝く国産の真面目を発揮しつつあるアークロ式クボタディーゼル機関は性能の卓越せること殆ど比類を見ずといはれ、好評晴々として各方面より歓迎され近来いよいよその需要層の増大を示すに至った
「日本都市大観(附:満洲国都市大観. 昭和11年版)」(大阪毎日新聞社 編)

代表社員杉山武夫氏は近江の産、業界稀に見るところの活動家としてすでに定評あり透徹した先見の明と不撓不屈の事業精神は常にあらゆる障害を克服し遂に今日の大を成すに至ったもので、しかも氏の腹蔵するところの国家奉仕の念は絶えず事業の上に反映し或る場合には採算を顧みずして業界に奉仕的活動をなすなどのこと多く氏が農村機械科の先駆者として謳われる一面には氏の拂った犠牲の力少なからぬものあるを見逃せないとされている。

現在、東京、台北、京城、大連、神戸、名古屋、札幌の各地に支店を有し、業務は日々殷盛を呈しているが近き将来においてさらに支店網を拡大しより一層充備せる販売陣を敷くことは必定(ひつじょう)と見られている。本社は大阪市西区立売堀南通二丁目にある。
「日本都市大観(附:満洲国都市大観. 昭和11年版)」(大阪毎日新聞社 編)

これを読む限り、杉山商店の事業は大成功、1934年(昭和9年)10月現在で杉山商店の支店、出張所、販売店は全国で500ヶ所を超えていたそうです。

広島に生まれ、大阪に出て鋳物で独立、職人としての技を極め、その後、久保田家の養子となり、身ひとつで始めた久保田鐵工所を「水道管製造の覇者」にまで成長させた久保田権四郎。

滋賀県に生まれ、神戸の杉山家の養子となり、鉄材貿易で成功を収め「農村機械化の先駆者」と評されるほど商才に長けた杉山武夫。

この二人にはどこか似たようなところが感じられます。

その後の杉山商店

大正から昭和初期にかけて、クボタのエンジン、酉島製作所のポンプなどを販売し、杉山武夫社長のリーダーシップによって事業を拡大、500拠点以上の販売ネットワーク網を構築した杉山商店は大企業として大きく成長していたようです。

1949年(昭和24年)に発行された「日本貿易業者總覽 昭和24年度版. 商社篇, 生産業者篇」(人事興信所)に杉山武夫氏の名前を発見しました。

そこで判明したのが、1945年(昭和20年)11月に杉山商店は改組し、杉山産業(株)という社名に変わっていたということです。この会社の社長は「杉山武夫」と記載されていました。

1949年(昭和24年)、杉山武夫氏は59歳。そろそろ還暦を迎える頃です。

同じく1949年(昭和24年)、久保田権四郎は79歳、創業以来60年に渡り勤め上げた久保田鉄工所の取締役社長を辞任、相談役に退きました。

1947年(昭和22年)ごろから農機具自由売買の動きが活発化し、発動機も販売体制の見直しが必要となりました。約20年以上に渡り築き上げた権四郎と杉山武夫氏のパートナーシップもこの時点で終了していたのかも知れません。

残念ながら、今回はこれより先の杉山武夫氏の消息について見つけることはできませんでした。